退院して間もなく、お知らせを頂いた。佐之忠師が4月6日に、お亡くなりになっていた。
私の父は戦争でニューギニアに行きマラリアにかかり、戦後日光の実家で静養していた。
日光には初代中村吉右衛門が疎開しており、終戦後間もなく疎開中お世話になって町民への招待公演が行われた。
父も地方(ぢかた=演奏者)に駆り出され、そのまま芝居に関わることになるのだが、稽古場も日光に開いた。
当時の日光は今からは信じられないが、芸が盛んだったようだ。
そういえば、私の幼いころも日光の芸者さんが日光の稽古場に来ていた。
そこへ、日光に疎開していた芝居好きの少年は父の所に入門する。
それから、この少年がいろいろ経験を経て「杵屋佐之忠」となりついに前進座の演奏責任者、音楽プランナーと
なったいきさつや、NHKのラジオ深夜便で2年にわたり放送された「三味線十二か月」の内容を含む師の著書「黒御簾談話」に詳しく書かれているがとても面白い。
昨日も読み直してみたが、前進座の創設に関わった役者さんたちのエネルギー、大変ではあったろうがある意味では今では味わえない
理不尽が通じた時代を生きていらっしゃったことをヒシヒシと感じる。
病床の父を見舞って下さり、枕の下に佐之忠師の撮った河原崎国太郎丈の舞台写真があったー
私も、いろいろお世話になった。中でも一番記憶に残るのは、第50回のあかつき会の記念演奏会ではゲストとして出演くださり、
トークと共に「黒塚」を私の箏、今瀬苔山先生の尺八で演奏して華を添えていただいたことは、何よりの両親へのプレゼントになった。
一昨年の前進座の国立劇場5月公演での「番長皿屋敷」の箏に使っていただき、稽古の時にお目にかかったのが最後になってしまった。
今日は、「偲ぶ会」が渋谷のホテルで行われた。
ありがとうございました。ご冥福をお祈りいたします。 -合掌ー